大正天皇

前代は明治、後代は昭和という、日本の歴史の中で耀かしい時代と言われる両時代に挟まれ忘れ去られた時代があった。大正時代。明治天皇に継ぎ、日本人の中に天皇の存在をより強く認識させる必要がある時代であった。
大正天皇が悲劇の天皇となった背景がここにあるかも知れない。大正天皇、彼は当時(1910年代~1920年代)の政治家が必要とした言いなりの天皇ではなかった。自由奔放な性格で、自分の考えたものをそのまま口にしてしまう、ある面天皇としての権威は考えていなかった人であった。しかし、誰よりも家庭的で、やさしい人であった。
今回は大正天皇の簡単な紹介と彼が悲劇の天皇にならざえるをなかった政治的背景をみてみたいと思う。


生き残りの皇太子

 1879年明治天皇と側室の柳原愛子の間に生まれた大正天皇(以後嘉仁皇太子)に対する期待は大きかった。なぜならば、明治天皇の子供たちは生まれては即日または翌日死んでしまって、嘉仁皇太子が唯一生き残った皇太子であったためである。

生き残ったものの病弱であったため、学校(学習院)に入っても学業が遅れた。それを補うために詰め込み授業を行うくらいであった。

 しかし、このことは嘉仁皇太子にとっては精神的負担となり、それがまた病気の原因になって、学業を休まざるを得なくなり、それがまたしても学業に支障をもたらすという悪循環が繰り返された。


それを可愛そうに思った親王有栖川宮が健康回復を目的とした地方巡啓を明治天皇に申し込み許しをもらった。

地方巡啓は嘉仁皇太子にとっては自由を満喫できる時間を与えてくれ、また彼の好奇心を充足させるに充分だった。このような巡啓は嘉仁皇太子が天皇になるまでに盛んに行われ、天皇になってからは病気になる前まで何回かの巡啓を行った。
 


ナショナリズムのため・・・



これら行啓や巡啓(行幸や巡幸)は当時の政治家にとっては日本人の間に天皇を中心としたナショナリズムを創り上げるために欠かせない重要な要素であった。

歴史の裏舞台にしか存在していなかった天皇を歴史の表舞台に引き出したのが藩(長州・薩摩藩)出身の政治家であった。

彼らは討幕戦争を起こし,政権を握ったので自分たちの政権に正当性を与えるための権威的存在が必要であったし、その条件を満たしたのが天皇であった。しかし、天皇の存在は当時の日本人にはあまり認識されていなく、また意識しなくてもいい存在であった。

そのため、彼らは天皇を日本人にとって神的な存在として創り上げる戦略を繰り広げた。


その一環として行われたのが行啓や巡啓であり、これらを通じて天皇の威厳を日本全国の津々浦々に見せつけ、天皇への忠誠を誓わせることをその目的とした。行啓や巡啓により日本人の間に天皇という存在が段々認識されるように、また意識されるようになった。



また、植民地の支配をより効率的にするため皇太子の朝鮮や台湾などの植民地での巡啓を計画することもあった。嘉仁皇太子は当時朝鮮の初代統監であった伊藤博文の計画により1907年最初で最後に朝鮮を訪問することになった。


伊藤には日本で成功したように植民地でも天皇に対する忠誠を誓わせることで、植民地支配をより円滑に行おうとする思惑があったのだ。

しかし、結果的に伊藤の思惑と裏腹に朝鮮では反日運動がより強まる結果となった。

ともあれ、日本ではこういう行啓や巡啓を通じて、天皇は「現人神」として日本人の間に存在することになった。




 機会があれば、天皇がどうやって日本のナショナリズムの象徴として創り上げられたのかをより詳しく見ることにし、ここでは大正天皇と関連した行啓や巡啓のもつ意味を簡略してみた。



 
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